天理教教会本部の部下教会の中で最も歴史ある教会「山名大教会」の初代会長 諸井國三郎の出生から、信仰との不思議な出逢い、そして教会ができるまでの物語です。
天理教山名大教会は、明治21年(1888年)に設立された天理教教会本部の最初の直轄教会として、同年12月5日に設立を許されました。
創立者である初代会長・諸井國三郎(もろいくにさぶろう)は、天保11年(1840年)、遠江国山名郡広岡村下貫名(現在の静岡県袋井市)において組頭(名主を助けて村の事務を取り扱う役)諸井十郎兵衛の三男に生まれ、幼名を龍蔵といいました。幼い頃から明敏精悍な性格で農事にはなじめなかったことから、16歳で國三郎と改名して侍奉公を志して江戸に出て旗本に士官を果しました。
文久3年(1863年)に、14代将軍徳川家茂の上洛に付いて、その警護の銃隊の一員に選ばれ、水戸で起った天狗党の乱では、歩兵取締として参戦、大砲や小銃の弾が雨のように飛び交う中で奮戦するなど、國三郎は、幕末・明治維新の激動期を侍として生きぬきました。
その後、間もなく幕府の解体によって、明治6年(1873年)、33歳で侍を辞して郷里へ戻ります。侍をやめるにあたり國三郎は、明治の新しい国づくりに寄与することを理想として、郷里遠州の地で農業を基礎とした新しい殖産(しょくさん)を興そうと考えました。
郷里に戻った國三郎は、まず原谷川の氾らんで荒れた土地を購入して開墾し、そこで養蚕(ようさん)と製糸(せいし)と機業(はたぎょう)を始めました。
江戸時代末期の農村は民力が衰え、さらに飢饉(ききん)などによって負債を抱えて困窮する所が多かったようですが、その頃の広岡村は大きな負債を抱えて村民が苦しんでいました。
江戸から帰った國三郎は、村方から依頼されて、村の負債整理を引き受けて日当は1文として受けずに奔走しました。村の負債を返済する手段として國三郎はいろいろな方法を試みましたが、特に当時農村の復興に大きな功績を残した二宮尊徳の報徳仕法を実行したようです。
その方法は、自家に太鼓を吊るし、夜の白むのを待って打つ太鼓を合図に村方が夜なべに作った縄や草履を集めてまわり、それを売って負債返却の資金にしたりしました。また、道路の修繕や橋梁の架設に力を注いだり、将来のために青少年の教育の重要性を考えて夜学を起したりしました。その当初には、3ヵ年の間、油や炭を自費で負担し、広岡村の刮目舎(かつもくしゃ)小学校(袋井東小学校の前身)の創設にあたっても建築係として尽力し村の発展向上に尽くしました。
村の負債も8年ほどでほぼ整理がついた頃、事業が手広くなって手が離せなくなってきたこともあって國三郎は、村の役向きを辞退して事業に専念しました。國三郎は、自伝の中で「自分の心がけは国家主義で、心の国家の上において、国利民福の増進を図るのが私の主義である。養蚕や製糸や機業に手を染めたのも、自分一身の利益を求めてのことではない」と述べています。慣れない商売でありましたが、精魂込めて作った製品は、やがて認められ表彰されるような品を生み出していきました。
そして近村の希望者には、だれ彼の別なく、絹機(きぬはた)などを無料で教えて、地域産業の啓蒙に心を尽くしました。このように明治維新後の新たな国づくりが進む中、國三郎は農村においてその一役を担うことを我が使命と感じて、国利民福の理想実現に向けて突き進んでいきました。
そんな國三郎のもとに天理教の教えを伝えたのは、明治15年(1882年)秋に不思議な縁で諸井家を訪れた一人の青年でした。
青年は、吉本八十次(きちもとやそじ)といいました。八十次は、東京から大阪への旅の途中、相州の馬入川(現在の神奈川県、相模川)を渡し船で渡り歩いていると、前をとぼとぼと歩いている男に追いついてしまい、その男と言葉を交わしました。その男は、國三郎の番頭でした。男は、諸井國三郎の命で八王子に商用に出向いていましたが、帰途の横浜でお金を使い込んでしまい、逃げ出そうとも考えましたが、妻が諸井家で糸引きとして働いていたので逃げることもできず、途方に暮れてとぼとぼ歩いたのでした。男は、何も知らない吉本に、「私は遠州の諸井國三郎という者だが、横浜での商いの帰り、川へ財布を落としてしまった。家に着けば返すから道中賄ってもらえまいか」と嘘を言うと、吉本は快くそれを引き受けました。
諸井宅のある袋井(現在の静岡県袋井市)近くまでたどり着くと、男は吉本に本当のことを白状し、その上「君は八王子の人で、桑の耕作が上手なので連れてきたということにしてくれ」と頼み込んだので、人のよい吉本もそれを引き受けて、不思議な縁で諸井家に住み込んで働くことになりました。
吉本は、非常に正直者で、陰日向なくよく働きました。
そうして2ヵ月がたった年の暮れ、諸井家に勤めていた織物教師・井上マンの歯が痛み出し、二日二晩苦しみました。それを見かねた吉本は、「神様にお願いしてあげましょう」と言って、夜の戸外へ出て、暫くすると茶碗に一杯の水を持ってきて渡しました。水を呑んだ井上マンは、急に眠気を催して床につき、そのまま眠ってしまいました。翌朝には、すっかり治ってしまいケロッとしていましたので、諸井家では大変驚かれました。
不思議に思った國三郎は、吉本が信仰している神様がどんな神様かを尋ねました。吉本は、自分がかつて病で失明していたところをたすけられたことを話した上で、親神様がこの世と人間を創造され、今も世界を守護している「元の神・実の神」であること、そして人間の身体は親神様からの借り物であること、病の元は心からと言って心の中に埃のように積もり重なる「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つの心遣いを自ら反省して掃除することで親神様が守護してくださることなど、親神様の教えを伝えました。
吉本の話を聞いた國三郎は、深く感ずるものがありましたが、経営者として事業を営む責任がありましたので、すぐに信仰するわけにはいきませんでした。そのかわり村の病人宅へ吉本を向かわせて、おたすけをさせました。吉本が願うと不思議な御守護がたちまち現れました。しかし、間もなくして吉本は、大和のおやさまのお屋敷に向うといって諸井宅を去りました。
年が明けて明治16年(1883年)の2月のある日、國三郎の2歳になる娘が喉気(のどけ)の患いで危篤に陥ってしまいました。
妻そのは、この上は吉本八十次から聞かされた天理王様の信心でたすけて頂くしかないと國三郎に懇願しました。最初、國三郎は、「お前の信心は、腹のすいたのを徳でなおそうというものだ。そんなものでなおるか」と取り合いませんでしたが、子供をたすけたい一心のそのは折れず、3時間にわたる談じ合いの末に國三郎も心を決めて、夫婦で、「なむ天理王命、これから夫婦とも一心に信心させていただきます。どうぞ、赤児の身上たすけたまえ」と願ったところ、不思議にも子供が乳を飲みはじめるという奇跡が起こりました。
そして夜が明ける頃には声を出すまでになり、3日目には、ご飯に汁をかけて食べられるようになり病は全快しました。これが諸井國三郎夫妻の信仰のはじまりです。
國三郎は、ただちに大和に居られるという生き神様・おやさまのもとへ御礼の旅に出発し、6日間かけてお屋敷に到着しました。おやさまにお目にかかった國三郎は、子供の命をたすけて貰った御礼を申し上げました。するとおやさまは、その場で國三郎に親神様のお話を親しくいろいろとお聞かせくださいました。
國三郎は自伝において、その頃のおやさまは、訪れる人々には、常に「元はじまりのお話」をお教えになったと伝えています。元はじまりのお話とは、親神様がこの世と人間を創造されたお話で、人間存在の目的が「陽気ぐらし」にあることを明言される天理教教義の根幹となるお話です。「陽気ぐらし」とは、親神様の子供である人間が自らの心を澄まして、互いにたすけ合って暮らす世の在りようを意味しています。
そして、いつもこのお話をされる前におやさまは、
「今、世界の人間が、元を知らんから、互いに他人といってねたみ合い、うらみ合い、我さえ良くばで、皆、勝手勝手の心をつかい、はなはだしき者は、敵同士になってねたみ合っているのも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。なれど、このままにいては、親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても元を聞かせねばならん」
と仰ってからお話を始められ、最後には、
「こういうわけゆえ、どんな者でも、仲よくせんければならんで」
といってお聞かせになったと伝えています。
おやさまの教えは、かつて侍として戦場をくぐり抜けてきた國三郎とって、目から鱗(うろこ)の落ちるような有難いお話であり、もともと持っていた国利民福の理想と相まって、信仰に一層拍車をかけました。
國三郎が初参拝をした同じ頃、一足先に、吉本八十次に病気をたすけられた松下半兵衛等5名が連れ立って伊勢参詣を兼ねて大和までまわり、お屋敷を訪れていました。
遠州地方では、伊勢参りから戻ると、「伊勢帰り」といってお祝いをする習慣がありました。そのお祝いの席で、吉本八十次によってたすけられた人たちから、「ぜひ講社(こうしゃ)をつくって信仰しよう」という気運が高まりました。そして國三郎が皆に推されて講元(こうもと)となり、明治16年(1883年)2月26日に、遠州で初めて講社が結成されました。國三郎たちがおたすけに回ると不思議な御守護が次々と現れました。そして講社に加入する信者はますます増えていきました。
こうして不思議なたすけが次々に現れると、國三郎は、もう一度お屋敷へ参って、深い教理とおやさまが教えられた「おつとめ」をすべて習得したいと熱望するようになり、その年の夏、8月29日に講社の木村林蔵氏と共に袋井を発って、9月3日にお屋敷に到着して2回目の登参を果しました。
この滞在中に國三郎は、後の本席・飯降伊蔵を通して親神様から、「さあさあ、珍しい事や、珍しい事や、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」という頼もしいお言葉をいただきました。神様のお言葉どおり國三郎が国に帰って講社でつとめを勤めるごとに不思議なたすけは次々と現れ、講社の数も増えていきました。
講社は、講の組織化とともに「天理王講社 遠江真明組」(てんりおうこうしゃ とおとうみしんめいぐみ)と名称を変え、明治21年(1888年)に天理教教会本部が設置されるや、同じ年の12月5日にいち早く山名分教会として設立のお許しをいただきました。
山名分教会が設置されると、その下に部下教会が次々と設立され、信仰の道は遠州から中部、関東、東北へ、さらには台湾へと伸び広がっていきました。
山名分教会の名称は、明治41年(1908年)に天理教が神道から一派独立をした翌年の明治42年(1909年)に山名大教会と改称しました。
その後、山名大教会から分割または分離した大教会は12カ所に上り、現在は、国内に392カ所の分教会、台湾に6カ所の教会があり、親神様の御守護、おやさまのお導きを戴いて、世界一れつ心澄まして互にたすけ合う陽気ぐらし世界実現に向けて更なる歩みを進めています。